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2024.05.19

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浦上の聖人

 1945(昭和20)年8月、長崎に投下された原爆で、街は廃墟と化しました。長崎医科大学の永井隆(1908-1951)も重症を負いました。41歳でした。しかし彼はすぐに救護所を開設し、そこで次々と被災者の治療にあたりました。200人以上の命を救ったと言われています。

 翌年6月に白血病に罹患した永井は、闘病生活を送ることになります。彼は長崎の惨禍を伝えるため、不自由な体に鞭打って執筆活動に励みました。そして多くの作品を発表して、原爆に打ちひしがれていた人々の心を癒しました。1948(昭和23)年に出版された「この子を残して」は読者の涙を誘い、ベストセラーになりました。

 敬虔なカトリック信者であった永井は、戦争については誰を恨むことなく、神が与えた摂理として捉えていました。得られた印税のほとんどは、浦上天主堂の修復や奨学金のために使っていました。入院中の永井のお見舞いには、ヘレン・ケラー、ローマ法王の特使、昭和天皇らが訪れています。

 1951(昭和26)年5月、永井は手にロザリオと十字架を持って亡くなりました。長崎市の公葬にはなんと2万人が集まり、寺院の鐘や汽笛、サイレンが一斉に鳴らされて、黙祷が捧げられました。長崎の人々は、永井を「浦上の聖人」と呼んでいます。

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